浄福寺について
浄福寺の寺歴は、元和2(1616)年に寺領を賜り、創建開基されました。(江戸時代の儒学・本草学者 貝原益軒の史書『筑前の国風土記』に記述)
以来、親鸞聖人の御教えを伝えてゆく聞法の場所として、また門信徒の先祖代々からのお寺として、共に慶びと悲しみを分かち合いながら400有余年の歴史を歩み今日に至ります。
現在境内にある鐘楼堂は、寛永14(1637)年に建立され、国の登録有形文化財に指定されました。年に2回の法要や、大晦日の除夜会に鐘撞きを行うなど、地域の方々をはじめ、ご門徒の皆さまと共に大切に保全につとめております。
浄福寺の由来
浄土真宗本願寺派千代山浄福寺。元和2年(1616年)寺領を賜り、創建開基されました。
初代住職は島津宗安(寛永7(1640)年没)です。
江戸時代の儒学・本草学者 貝原益軒が遺した史書『筑前国続風土記』の『捨遺』
『那珂郡』『辻村』の項において、以下の記述があります。
浄福寺
「真宗西なり。…むかしは天台宗なりしか、寛永年中に當宗(当宗)と成りしという…」
加えて同書の『附録』には次のように記される。
「千代山と號す。豊前小倉浄福寺に属せり。昔は天台宗なりしか、寛永年中に真宗となる。正徳の年 寺號を許さるとそ。」(真宗西 佛堂二間三間…)
以来、浄福寺は、浄土真宗の開祖親鸞聖人の御教えを伝えていく門法の道場として、またご門徒の先祖代々の篤い信仰に支えられた儀式の場として、共に慶びと悲しみを分かち合いながら400年以上の歴史を歩み今に至ります。
国登録有形文化財 浄福寺鐘楼堂の由緒
寺伝によれば、この鐘楼堂は、かつて大阪・天満鳴尾町で堀川御防と称された本泉寺にあったという。
明治30(1897)年までに、本泉寺は現在の大阪府四條畷市蔀屋本町に移転した。その時、寛永十四(1637)年の刻銘をもつ梵鐘とともに、この鐘楼堂を筑前堅粕(現在の福岡市博多区堅粕)にあった浄福寺に売却したという。
寛永の梵鐘の売却談は事実と認められる。が、惜しいことに第二次世界大戦末期に武器の材料として供出され現存しない。
鐘楼堂に関しては形式的には福岡市近世社寺建築緊急調査に類例がなく、筑前大工以外の手による、江戸時代後期の作品である。また移築された本泉寺の現本堂は、和様を基本に、礎盤や桟唐戸に禅宗様を用いた折衷様で、浄福寺鐘楼堂の意匠と共通する。梵鐘とともに浄福寺が買得したとの寺伝を疑う理由は乏しい。
この歴史的に貴重な鐘楼堂の姿を後世にまで伝えるべく、平成21(2009)年峻功の解体工事では、構造材の一部交換と瓦の葺替えに止め、垂木一本一本まで丁寧に補修して旧い部材を再利用するよう周到に配慮された。
大阪・天満鳴尾町の大寺で建立された本格的な近世の鐘楼堂が、移築先の福岡で大切に維持・保全され、愛されてきたことは文化財保護上で貴重な事例といえる。
前述の理由により、平成23年1月26日この鐘楼は、国の登録有形文化財となった。
※資料 木崎愛吉編「大阪金石史」大正10(1921)年 好尚会出版部
文責 工学博士 山野 善郎(元九州大学大学院助教授)
浄福寺 概要
寺 号 | 浄土真宗本願寺派 千代山 浄福寺 |
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所 在 地 | 〒811-1355 福岡市南区檜原6丁目10-16 (アクセスの詳細はこちら) |
電 話 | 092-565−6800 |
浄福寺 歴代住職
開基初代 | 宗安 |
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第二世 | 正了 |
第三世 | 宗甫 |
第四世 | 円超 |
第五世 | 恵了 |
第六世 | 單嶺 |
第七世 | 宗鎧 |
第八世 | 宗瀼 |
第九世 | 円鎧 |
第十世 | 覚音 |
第十一世 | 覚念 |
第十二世 | 法全 |
第十三世 | 貫流 |
第十四世 | 義教 ※ |
第十五世 | 康雄 |
第十六世 | 義教 ※(十四世・十六世歴任) |
第十七世 | 慶哉 |
第十八世 | 慶城 |
第十九世 | 成明 |
住職ご挨拶
浄福寺ホームページへようこそお越しくださいました。
たくさんの方々にお寺を知っていただきたいという願いで開設しました。
ご門徒さまをはじめ、これまでお寺にあまりご縁のなかった方にも、身近にお寺を感じていただければ幸いです。
気軽にお寺へ足をはこんでいただき、仏様の御教えに触れていただくご縁となれば有難いです。
慣れないホームページの作業ですが、徐々に内容を更新して、見やすいホームページにしていきたいと思っております。
浄福寺 住職 佐々木 成明